☆★加藤のDQNな生い立ち★☆
自分自身のメモなんでこなれていないし,内容が重複している個所がありますが,
徐々に書き足していきます.


最終更新は 2004.09.10 です.
マイナー修正を2004.10.08に加えました^^;;


☆★生まれたころ★☆
私が生まれたのは15年戦争終了後10年経過した1955年9月10日.
日本では『55年体制』のできた年であるし,アメリカではロックンロールが生まれた年.

1955.06.01 初のアルミ貨『1円』が発行された.それまでは1円は紙幣だったのか?
1955.08.27 森永乳業の徳島工場で粉乳に砒素が混入.乳児が死亡.私は今でもなるべく○永乳業製品を避けている.
1955.11.15 自由民主党結成.55年体制ができた

1945年に終戦を迎え,10年が経過している.
不思議に我々の世代は,飢えたこともないし,物資が足りないこともなかった.
食べ物も本も教育材料も不自由していない.

戦後復興がなかなか進まないアフガンやイラクの状況を考えると驚異的なことだ.

生まれた場所は宮城県仙台市.
産院は,偶然にして後に高校の同級生となる五十嵐君の実家・五十嵐産婦人科.
従姉,妹もここで生まれている.


左の写真は2004年1月 偶然発見した古い看板.

仙台は閉鎖的な色彩が強かったのでは思えるが記憶が曖昧でよく覚えていない.
昔,近所には田んぼもあったらしいが私が物心ついたころはすでにない.
(小学校の校歌にオダワラタンボという言葉が含まれていた)
住居は宮町という商店街の中にあったが今はさびれている.

☆★私の家族★☆
出身地(仙台)に父 母 妹が住んでいる.
父は加藤昌太郎.大正12年生まれ.
旧運輸省下の気象庁勤務の技術官僚.
終戦後シベリアに2年間,被拘留経験を持つ.

性格は短気,気難しい,怒りっぽい.
最近は寡黙(アホかもしれない^^;)

趣味は...何もなさそうだ(笑)


母は加藤智子.昭和2年生まれ.
歯科医の娘.
性格はノホホン.行動は受身.調子に乗るとわがまま.

趣味は生け花.
おしゃべりとグチ.

母の父は杉本是正,北海道で最初の医学博士である.博士号はアイヌの歯型を調べて取得したそうだ.エライ!
母の母は杉本みどり.
この祖父母に私はかわいがられた.

妹は加藤八壽子(やすこ).昭和34年生まれ.独身だぁ^^;;

性格は謎.

蛇を首に巻いても平気なオンナだ.
(シンガポールに連れて行ったとき目撃した!)
あれには驚いたヨ.

笑いが絶えることがない明るい家庭ってわけではない.
静かな家庭だった.
父は笑わなかった.母は,父のご機嫌を心配してばかりいた.
母は料理が下手で子供心に不思議に思ったよ.
いまだに食べたいオフクロの味がない.
妹は,謎だ.たぶん自分の世界を持っている.
私が大学進学で合法的に家出してからが彼女の成長期なので,
妹の人格形成を見ていない.

無論仲が悪いわけではなく,何を話したらいいかわかんないだけだ.

☆★幼稚園に行く前★☆
実家は駅から10数分で歩けるくらい近く,裏庭に栗の木や柿の木があった.
日のあたらないジメジメした裏庭だった.
北から,酒屋→床屋→八百屋(キクチっていったかな)→実家→クリーニング屋(鈴木)→翁寿司 だと記憶する.

父が母の実家に結婚を申し込んだとき,
彼なりに悩んだらしく帰りは近道である墓地を通り帰途したらしい.
そんな話に母の実家は『こんな男なら娘は路頭に迷わない』と思い結婚を承諾したそうだ.
後から考えると間違っていたネ(笑)

私はこの手をいつか使おうかと思っていたが使わずにすんでいる.
私の代では再利用されないかもしれない^^;;

最初の記憶はなんだろう?

はしかにかかって仙台市立病院に入院したときだろうか?
私は4歳くらい.
妹はハシカと肺炎を併発し,妹の鼻に管が挿入されているのを覚えている.
私と妹は同じベッドに寝かせられていたので覚えている.

同じ病室の子供は死亡した.
病室を『移る』と聞いて『映る』と思った記憶がある.

夜中で母が不在のとき腹痛で苦しんだこと.
父が自分の薬を飲ませてくれた.
母は父にしかりつけられ実家に戻っていた時のようだ(笑)

父の兄弟が同居していたので,皆にからかわれた.
いやな記憶したかないなぁ^^;;

丸光という百貨店があって,その隣の食堂(味の会館?)で父に何かご馳走を食べさせてもらった気がする.
何食べたんだったのかなぁ?

公務員(運輸省・気象庁勤務)の父の稼ぎは普通といえば普通であるが,裕福ではなかったはずだ.

我が家は父親の絶対権力が強く,逆らえなかったため 母親はガマンが多かった.
耐えるだけの人生がいかにつまらないか の象徴でもあろう(笑)

父の『方針』で我が家は超アバラヤであったためそれがいやであったなぁ.
写真は2004年の実家.1978年ごろ立て直した.

人間関係がうまく築けないのは父に似たかもしれない.
母は単純な性格.歯科医師の家系に生まれて貧乏役人と結婚したのだから運が悪い.

☆★幼稚園に行った★☆
名前は光禅寺通り幼稚園だったかなぁ?
たぶん1990年くらいに廃園となった.
名前に反してプロテスタント系(笑)
白虎隊の生き残りが創設したらしい.

『人生に必要なことは全て幼稚園の砂場で学んだ』と誰かが言っていたが,
私は全然学ばなかったヨ^^;;

担任の先生は渡辺ようこ先生(?)
地味な先生だった.
となりのこまどり組の小野先生が素敵だった(笑)

私は1年保育(はと組)だったのだが,
2年保育,3年保育にはなぜかなぜか高校の同級生になるやつが多くいたことを後で知る.
何の因果なんだろう?

絵の天才少年,熊野聡君も同じ幼稚園だった.
在園時代に交流はない.

同級生に誰がいたかなぁ?

写真屋さんの息子・青木君,
駒みのる君(名前が変わっていた)

紙芝居に人気があった.
牛乳のフタでメンコしてたね.
大きなメンコが欲しくてヨーグルトを取ってもらったっけ(笑)

そういえば私は卒業生代表で答辞を読んだのだ!
たぶんだけど...
学芸会で大太鼓を叩いた.

☆★小学校のころ☆★
仙台市立東六番町小学校.
(写真は2004年1月に撮影)

1クラス50人くらいいた.
小学校で初めて担任の教師は福田かつ江さん(1,2年担当).
えらいかんしゃくもちだった.
戦争を憎んでいたらしいが教員としては面白みに欠ける.
恐怖!でみんなすくんでいたヨ.


学校が楽しくなるはずがなかった.
そもそも私は団体行動が極力苦手なのだ(笑)

鈴木あいこさんが次の担任(3,4年).
えこひいきの激しい人だった.
私はなぜかかわいがられたからよかったが.

高平さんが5,6年の担任.理科の先生だった.
ここでいっしょだった熊野は後にオルゴール製作の道に行く.

一度ここで岩手県盛岡市の小学校(盛岡市立山王小学校)へ転校.すぐ戻った^^;;

小学校のころも私はボーッとした児童だった.
多少オベンキョウができたこともあったが,天才・秀才の類ではない.
オヤジは相当に秀才だったようだが,私には無理(笑)
性格も暗かったし,どこか萎縮していた感じがする.
人との付き合いはそのころから苦手で表面的だった.
そういえば友人を家に連れていったら父に怒られたことがある.
いまだになぜなのかわかんないが,今なら私が切れていただろうネ(笑)

近所の悪ガキ(藤本君)が柿の実を失敬していたところを父に見つかって怒られていたことがあった.

好きな科目は理科だったかなぁ.

☆★中学校の頃☆★
仙台市立五城中学校.
中学は不良が多いといわれていたので有名な学校.
あんまし品はなかったなぁ.

剣道部に入部したが練習は熱心になれず...根性がなくてすみません.
不思議と何の記憶もない.
あまり楽しくはなかった.

やはり学校が苦手だったのだ.運動会とか修学旅行とか団体行動がどうしてもダメ.
マラソン大会,嫌いだったし...

1年生のときは田中??さん.パッとしない担任だった.
2年3年は古川??さん.英語の先生だったが,今の私のほうが絶対うまいヨ.

同級生には若生(あいつは性格が悪かった)とか真山とかいた.
伊藤アキヨシとか,遠藤なんとか...
記憶は薄れている.

3年になったあたりから次第にハードロックに夢中になる.
中学校のころの私もボーッとした生徒だった.
このころの成績はやはりパッとしなかった.
勉強してなかったし,勉強のやり方も自覚できてなかったのだから仕方がないけど.
尻に火がついて始めることも多々あり,それも間に合わない日々.

2003年に再会した小野勝一郎君と私は中学校の同級生だが,不思議なことに同じクラスになったことはない.
高校も別々.
大学も別々.
何で知り合ったのかは忘れた^^;;

そういえば熊野聡は元気か?(笑)
熊野君は仙台箪笥の職人だったが,千葉大にいた頃,
ヨーロッパのオルゴールに魅せられ,家業を離れてオルゴールの道を選んだヤツだ.
いまや彼はオルゴールの世界で第一人者.
清里の民芸店で彼のオルゴールにそっくりだなぁと思ってみたら,
ヤツの作品だった(笑)
私は由美ちゃんの大学の入学祝に買ったきりだが,
素敵なオルゴールを作リ続けている.
いまや地元(仙台)の顔だ.

公立の高校には当然のように落ち,榴ヶ岡高校に入学.

☆★高校の頃☆★
正式には,東北学院高校榴ヶ岡校舎という.
高校生に入学時成績は135人中117番だった.
(友人金安も3桁の成績だったネ^^;;)
これはショックだったよ(^^);;
もっとマシかと思ったけどひどかった...
これには自信を喪失したなぁ.
だが,慣れると平気になるもの.最終時に卒業時は66番だった.ちょうど真中だぁ!

入学式のとき,月浦校長が『君達は神の意志でここにいる』と言った.
意味がわかったのはずっと後だったが,いい言葉だ.
自分は愛されているしかも証明を必要としない.
という感覚がわかった気がする高校生活でした.
後にして思えばだけどね.

1年生の担任は木村洋一郎先生.
依然として勉強をやらなかったし,勉強の仕方もよくわからなかった.
差がつくのは当然だ.

校舎はオンボロだったが私は気にならなかった.
隣は親父が勤務する気象庁.
私が体育で運動場で駆け回っていると,父は見学していた(笑)

2年生のときに,榴ヶ岡を離れて仙台の北にある泉市(今は仙台市泉区)に校舎が移転した.
初めてのバス通学.
時々チャリで通った.

高校2年のときに約1週間かけてサイクリング・ツアーをしたことがある.
中学校の同級生でバラバラの高校に進学した,小野君,熊野君と3人で.
仙台→石巻→女川→陸前高田→宮古→盛岡→平泉→仙台(のような気がする)
一日100kmくらい移動したんだなぁ...
(熊野君とは幼稚園,小学校,中学校といっしょだ)
あれ以来,我々はいっそう友達になったんだろう.


そしてこのころの私はハードロックの真っ只中.
ピーターパンという喫茶店ではお世話になった.
クリスマスパーティでの1曲目は,まだギターをまじめに弾いていたころのエリッククラプトンの『いとしのレイラ』
お店に来ていた東北大学のおにいさんとおねーさん(トモちゃんだったね)の会話,憧れたネェ...

桜井さんこんにちは.
それに橋沼さんもはじめて会ったのはこのころ.

高校2年生のころ,辞書を買いなおして英文法からやり直し,ちょっとマシな成績になった.
しかしこれも英語だけ.

高校2年生のときに現在の東北学院・榴ヶ岡高校となった.
入学した時は坊主頭強制だったが,2年生のとき,制服自由! 頭髪自由!
いっぺんに自由になった(笑)

高校3年生のころ,選択科目3時間を数学にして数学の強化を図った.
ちょっと得意だった英語と化学と数学で受験を乗り切る作戦.

木村先生にNEXUSを習い,感覚が身に付きました.
及川先生の数学,スマートではなかったがわかりました.
英語の五十嵐先生の時事英語,役立っています.
ベトナム戦争の話今度話したかった.
脇田先生の化学.なまじできてしまったので大学でも専攻しようとし失敗!その脇田さんが校長先生! (その後引退)
杉本先生寝てばかりいてすみません.(今の校長)
半沢先生名前を覚えてください!でもご冥福を祈ります.
片倉先生ご冥福を祈ります.
大泉先生生きていれば100歳超えてるな?  ご冥福を祈ります.

3年生の頃,選択授業を私は全部数学に当てた.
数学が勝負と思ったから.
おかげで多少合格ラインが見えるようになった気がしたけど...

受験はことごとく失敗してしまったよ(笑)
浪人決定.
浪人中は,英語,数学,化学を中心に集中.

後でわかったが,第1回卒業生には鈴木邦男氏がいらしたのだ.
2004年,本人にお会いして,直接うかがった.驚いたヨ!

『AV女優』の著者,永沢光雄氏や荒木飛呂彦(漫画家)も卒業生.

☆★予備校の頃☆★
東北文理専修学校という予備校に通う.
周りには予想以上に浪人が多かったようだ.
予備校にもいるワいるワ!
(←の写真は,河合塾の傘下に入った後の予備校 今は河合塾文理っていうらしい)

勉強はまじめにやった.成績もこのころがいちばんだったろう.
私立理科系で全国22番〜88番 予備校内でも5番以内くらいだった.
特に学研模試では全国100番以内をキープ!(私立理系は基準が甘いんだなぁ)
特に秘策があったのではなく,うまく歯車が噛みあったということだろう.

黒川先生・酒井先生お世話になりました.
後にバイトで英語を教えるとき,黒川節を参考にしてます.

先の橋沼さんと再会.(同じクラスだった)

大学は横浜市大,東京理科大,中央大に合格.
早稲田,慶応は不合格(偏差値的は受かるはずだったが,不思議に落ちる^^;;)

☆★大学に入った頃☆★
1975年,横浜市立大学文理学部に入学.
私が受験勉強したのは,当時の数学(T,UB,V),英語,化学のみ.
国語は放置^^;;
物理はお付き合い(笑)
たまたま出題された物理が簡単だった(笑)
入学できたのは偶然だろう.

写真は2003年に訪れた時の市大.

入試は1975年3月2日と3日だった.
競争率は40倍くらいあったと思う.
(他大学に流れる合格受験生がいるから,合格者も多い.最終的のは15倍くらいの倍率だった)

入試の時って校門は閉鎖になるよね.
でも市大(横浜市立大学)は開放していた.
で2日目は外にパンを買いに行った.
池(第一講堂)の前で食べていたら鯉がうんじゃらよって来た.
そこでパンをあげたら皆食べた.
そこで入学したらパンをあげると約束したら受かった(笑)

以後7年間約束を守ったヨ.

卒業の時越知ゼミで寄せ書きを書いてもらったら,
僕が鯉に餌を与えているのを傍らから見ていた女学生(いいねぇ,この響き)がいた.ならもっと早く言ってね.

先輩達の影響は大きかった.
木肇君・須藤常也君ありがとさん.
今でも交流があるのは田中ボタモチ君.いや最近ご無沙汰だ(笑)

金沢文庫に下宿していたころ,金安徹君のお母さんには家庭教師のバイトを世話になりました.
山本君,どうしているだろう?

雨が降ると下宿でブルースを聞く. 学校には行かなかったな.

関内にあるムーティエで会ったのが 松野進君,黒澤小風子さん...
がんになったらしいココちゃん.アメリカにいるはずだが.
ゲイのユウちゃん.SONGSというお店を自由が丘に出したがどうしただろう?
ゲイのJOHNとストレートのラリー オウエンズ.僕にファミリーパーティを教えてくれた.
JOHNとはあとで劇的にバンコクで再会するんだこれが.
ラリーは70年代すでにAMWAYに手を染めていたね.

だが大学の授業が全然わかんない!
哲学も法学もそうだが,得意なはずの化学がわかんない.
物理もわかんない...
あっという間にやる気がうせて2年のときは授業に出るのをやめた.
3年から文科に転科.
といっても授業には出なかったが...

私の大学に籍を置いたのは1975年から1982年の7年間.
学生運動は無論なかった.
横浜国大では革マル派と中核派の残党がいたけど,
横浜市大は民青の拠点校だったので平和だった.

当時の横浜市長が革新で有名な飛鳥田市長.
学内には昭和史論争で有名な遠山茂樹・今井清一がいました.
私から見ると今井はファシストと体質が変わらない.
著者と著作は運命を共にしない 最初に私が学んだのはこれだった.

今井は学内を『図書館のように使うのが望ましい』とヌカシあがった.

1975年入学してまもなく学費値上げ反対闘争がおきた.
学費は元々年間で1万5千円.
親には15万だと伝えてましたが疑われませんでした.
親孝行ということになっていました.

それを3万6千円にするというのですが
論拠がひどくて話にならん.
その張本人が飛鳥田.

学内で革マル派の学生(実は化学科の先輩のI間君)が内ゲバで襲撃されて大騒ぎになり,
聴き込みで,公安刑事が私のアパートに来た.

公:『加藤君の知り合いでこういうのがいないかね』
公:『例えばビラを収集するヤツとか』
加:『桑島直樹君があやしいですよ.彼は今までのビラ全部集めていますから』

私は『仲間』を売り渡しました^^;;

それからすぐ公安の刑事がまた来ました.
公:『加藤! お前が言っていた桑島はお前のとこの学長じゃないか』
公:『おまえをマトモに就職させないようにしてやるからな』

私はその言葉を聴いて何かが吹ききれた.
安心して留年しサラリーマンへの興味はなくなった.

(続きはまた書きます)

☆★やっと会社に入った☆★
1982年バロースに入社.まさかサラリーマンになるとも思わなかったけどね.

会社に入っても仕事はできなかった.
電算機の課題もよくわからない.
回りの人間ができていくのになぜ自分ができないのか不思議だった.
が,大学は仕事と直接関係ないことを思い知らされた.

初めて赴任したのが,静岡県御殿場の研究開発センター(PPDCと言っていた)
住居は静岡県三島市.

三島市に住むことになって,ここで松岡修司に出会う.
同居した1年半,同じ釜のメシを食った.
今でも大の親友だ.

1983年7月ごろ,東京に赴任.
なぜか松岡も東京に.
私は横浜に,松岡は江古田に住むことになった.
アパートが見つかるまで,しばらく松岡のアパートに居候した.

PCに興味があった私は,
なぜか運良く,日経テレコンを担当することになって,
運だけで社長賞を獲得.
生まれた初めて海外にも行った.(出張で韓国)

職業的プログラマーは向いていないことを悟ったヨ.
本当に向いていない職業だった.

1986年6月 軽井沢でジェフベックを観た.
ジョンレノンの常宿だったという万平ホテルに泊まった.
ビールを今までの中で一番飲んだ.
田中君,澤田さん,楽しかった.

この時にカメラと今でも使っている時計を買ったんだっけ...

その後,バロースは日本ユニバックと合併.
あえなく消えちゃった.
権力を振るっていた鈴木部長は贔屓の激しい方で,馬場さん,鎌田さんをかわいがっていた.
合併が決まったら,みんな離れた(笑)

☆★電通某では勉強させてもらった☆★
1988年3月14日,電通某に転職.
証券業界担当の金融SEになった.<BR> 実力がないのが身にしみる日々.
ここでも運だけで社長賞を獲得けど...

(←写真は見栄張って本社ビル^^;; 実際に入居していたビルは別のビルに改築されていた.)

職業的サラリーマンにも向いていないことを悟ったヨ.
自称SE(金融SE)を約10年やりました.

運良くアメリカ留学がかなう.大学卒業10年めでラッキーだった.

稲村さん,小島さん,お世話になりました.
大槻次郎さんの文章の書き方には大きな影響を受けた.
大槻??さんが『営業は科学だ』と1988年に言っていたわけが1996年にやっとわかった(笑)
岩田さんの人間的な魅力・交渉力には啓発された.
渥美さんのパワーに圧倒された!

☆★運良くアメリカに行った(ほんの2ヶ月チョイ)☆★
1990年10月〜12月まで,アメリカのウィスコンシン州立大学の付属の ELIに行かせてもらった.
語学ではなく,ビジネススタディが主で,先生が2名に私がひとり!
逃げ場なくてつらかった>_<

アメリカ留学時代に同じ寮にいる吉原令子に出会った.
あのころの吉原さんは,○○だったネ(笑)
私はスリムだったよ.

留学前後は宮崎麻子さんにはお世話になりました.
現地では なんといってもシャーロットバルーク先生にはお世話になりました.

英語学校の日本人の英語のできなさを馬鹿にするタワケな私でした.

飯塚君はビジネスを追及していたが, 私は,
プロテスタント,カトリックの教会をはじめ,アーミッシュの村落を訪ねた.
オペレーション・ブートストラップというボランティア団体で活動.
ホームパーティに呼ばれて,生姜焼きをはじめ日本食を作っては得意になってレシピを書きまくった.

湾岸戦争が勃発.
私のハンパな留学(つーか遊学)はこれで終わった.

☆★中野の住人になった☆★
アメリカから戻り,1992年7月ごろ住み慣れた横浜から東京都中野区に引越し.
今,住んでいるアパートの一室を購入した.
決め手は29平米の庭.
興味あった野菜作りを開始した.

このころ,5年くらい?交際していた○○尚○にも振られてしまいました.ぎゃーっ!
年齢差12年カップルだったけど...(笑)
実はこのころはちょっとおかしかったかもしれない.
ただ,人からは拒食症ではなく巨食症と思われていただけど(笑)

澤田さんの職場に土田さんがいたのもびっくり.

☆★令ちゃんと同居した☆★

1995年11月5日 吉原令子と同居開始.
1996年3月 S生命に転職.結局コンピュータや金融から足を洗えない(笑)

1998年ごろ中野区経済勤労課のセミナーで知り合った仲間でDネットを創った.
2000年 個人サイトを開設.
2001年1月 ホームステイ里子の稲○黎○の受け入れを開始.

2001年 朝日新聞夕刊『ネットあごら』にコラム掲載.(2001.06.08) 
 中央公論新社から発売された『ITセレクト』にもコラム連載.8ヶ月でボツ.
 年初に千葉木更津の施設から『ホームステイ里子』を受け入れ開始.きた早々熱を出して
 『偽親』の私はもうあせりまくり.子育ては甘くない.本当のおとうさんおかあさん達はえらい!とわかった.
2002年7月ごろ 中央公論新社発行の『ITセレクト』にコラム連載
2002年10月 某N社の○○に.
2003年 明日香出版から初の著作が発売された.

☆★だんだん人生が狂いだした^^;;☆★
2003年4月 石川氏の選挙活動に参加.
        このころからいろいろあった.
        イヤ,何にもないことになるんだろうか?(笑)
2004年1月 1月に虫垂炎+腹膜炎で入院した.腸を23cm切除した.
かなり体力的にきつかったがなんちゃことなく生きている.

それからがもっといろいろと...(笑)
今はまだ生々しくて関係者への遠慮でかけないことあるしサ(笑)
インターネットでの記録保存ができるので,これ以降はまた別の機会にまとめよう.

☆★結局,僕は蛇行しながらどこかに収束していく☆★
フーっ♪
書くことが山積みだが,ここまで書くのは疲れたぜぃ.

今,考えると,いろんな人に会って,いろいろな出来事があったと思う.
総じて幸せで自由な人生だ.
世の中を甘く見ていたけど,それでよかった?♪

それにしてもまだたくさん書いてないことがあるなぁ...

これから書くことは,
・失恋記(笑)
・好きなレコード(CD)の評論・コメント
・影響を受けた本
・お礼を言わなくてはいけない人への謝辞
・私の祖先について知ってること
 父方の先祖
 母方の先祖
 お墓のこと

2004.09.05現在じゃこんなもんだナ^^;;

僕は30人くらいと100冊と1000CDで構成されている☆★
父@母Aがいなければこの世に生を受けていないという意味はある.
小中高とボーッと過ごしたので人格形成には程遠い.
70年代のブリティシュロックとアメリカンロックには
ただならぬ影響を受けてしまった.
ラジオ製作には夢中になった.

高木B・須藤C両先輩の影響は大きく受けた.
 25歳くらいまでは
本多勝一D(アメリカ観ができた.後に彼には失望する)
中村とうようE(彼の文明論に感化された.)
五木寛之Fの初期の作品(晩年は退屈になった)
羽仁五郎Gの晩年の著書(彼の遺書だったのだろう)
には大きな影響を受けた.
 
太田龍氏,加藤晴康先生がマルクスの近代批判を行う中で,急速に順進史観に無理を感じた.
実は東洋体育の本Hに出会い衝撃を味わう(津村喬)

1988年ごろ広瀬隆氏の『億万長者はハリウッドを殺す』Hを読んでぶっ飛んだ.
歴史観が大きく変わった.
今までだまされていたかもしれないと思った.

松岡Iとは損得のない関係を続けている.

伊藤守氏Jは私にコミュニケーションを教えてくれた.

吉原令子Kは,明るく元気が大切である.

長尾たかしL 初めて右にもすごいのがいるとわかった.
GNの仲間Mや中野の仲間Nとの出会いも大きい

ミュージシャンという,話したこともない人からインスピレーションを感じるのは不思議なことだ.
FREE,Jeff Beck,Hunble Pie,Allman Brothers Band,Grand Funk Railroad,Guns & Roses,
Great White,Winger,小川銀次,
僕の感性の大部分はハードロックをはじめとするロックでできている.
これは確か!

☆★生い立ちに関わるリンク集☆★
仙台市立東六番町小学校
仙台市立五城中学校
東北学院榴ヶ岡高等学校
河合塾
横浜市立大学
日本ユニシス
電通国際情報サービス


熊野洞
熊野聡
熊野洞
吉原令子











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